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国産ガソリン第1号車「タクリー号」


山羽氏の蒸気自動車が国産自動車第1号となったのは前に書いた通りであるが、単に自動 車を作るという一般総称からみると、それより以前から自動車工業自体は存在していた。 すなわち、部分品(パーツ)をアッセンブルして自動車を完成させる方法であった。
明治35年、我が国最初の自動車販売会社として設立されたオートモビル商会(モーター商会 の改称)経営者の吉田・三浦両氏が渡米し2基の自動車を買ってきた。しかし、この自動車 は自動車とは名ばかりホリゾンタル2気筒ガソリンエンジンで、12馬力と18馬力の自動車の エンジンだけのものだった。

何故こんなものを買ってきたかといえば、自動車1台の原価は邦価3千円内外、このなかエ ンジンのみが2千円、後はシャーシーとかボディの代償となるわけであるが、日本で出来な いのはエンジンで、その外は高い金を費やし、多くの船運賃をかけて輸入しなくとも、エン ジンさえあれば日本で立派に作ることが出来るというので、エンジンだけを買ってきたと言 うのだった。

早速そのエンジンによって自動車を作ることになったが、その主任技師として選ばれたのが、 ウラジオストック帰りの内山駒之助氏だった。
内山氏は帰国後従兄弟の紹介で逓信省電信試験場へ入ったものの役所生活は性格に合わず、 しかもウラジオストックで見てきた自動車に非常な関心をもっており、多少の自動車を手が けているというので、招かれてオートモビル商会に技師として入社したのであった。
ウラジオストックで自動車に触れ、エンジンの説明を聞いて、ある程度の知識をもっていた としても、自動車を組み立てるということは生易しいことではなかった。しかし、命ぜられ 引き受けた以上投げ出すわけにもゆかず、外人のモートリストについて自動車の話しを聞き、 アメリカから取り寄せた2・3冊の自動車技術書について研究した結果、どうやら設計図だ けは出来上がった。

しかし、それからが大変であった。東京芝区白金の間宮自動車塗装工場に入り浸り、2・3 の馬車大工の応援を得て、半年の後に12馬力の自動車が完成した。明治35年の真夏であった。
その年の初秋、広島市の金庫業岩本某氏・貸席業瀬川某氏が広島市外出雲街道に当る、横川 −可部間の乗合自動車事業を計画し、オートモビル商会に自動車を注文してきた。
注文の概要は12人乗位・価格は1台8500円以内、ボディは欅をもって作るというのだっ た。

内山氏はいよいよ2度目のアッセンブルに着手した。無論乗合自動車というものはなく、1 台売れ残っている18馬力のエンジンをシャーシーに搭載し、これにボディを取り付けるのだ った。今度は2度目だったので、約3ヶ月で出来上がったが、自動車はできていても、山羽 氏同様タイヤで悩んだ。アメリカに注文していては6ヶ月を要する、といっても日本では製 造する工場が無い、というわけで乗用車用としてアメリカから買ってきていた4寸のバルー ンタイヤを取り付けることにした。

明治35年の暮も近い師走、日本製自動車と銘打って、陸路運搬丸9日間を費やし、漸くのこ とで広島に着いたが、何をいうにも僅か4寸のバルーンタイヤに12人乗り、しかもボディは 飛び切り重い総欅製であったため、広島に着いた3日目、意気揚々と試運転の真最中タイヤ が破れた。タイヤが破れると、修繕の方法を知らなかったのだから、次のタイヤの到着を待 たなければならなかったが、今度こそアメリカへ注文したため、まず半年は開店休業である 。最初の2ヶ月は待ったが、我慢が出来なくて、横浜のL・シュゾール商会にある馬車用の ソリッドタイヤを使う事にした。

しかし、それも駄目であった。軽く、しかも5・6人の馬車用に使うタイヤだからゴムが伸 びて使い物にならなかった。でも他に方法が無いので、2日使っては3日修理するというよ うに、まことにだらしのない日々を過ごしている中、ある日坂の途中でトランスミッション に故障を生じた。内山氏がシャーシーの下に潜って修理していると、自動車を目の敵として いる馬車屋が坂の途中に止めてある自動車を押したからたまらない。シャーシーの下に潜っ ていた内山氏は左腕をやられてしまった。それに怖気づいたのと、使い物にならなぬといっ て注文主は半金しかくれないというので、10ヶ月目に広島を後に帰郷することになったが、 帰途大阪の売立堀の岡田商会に立ち寄ったところ、フォード幌型自動車が到着していたので 、3ヶ月を費やしてこれをスケッチして帰った。これこそ、タクリー号を生む貴重な設計図 となったのである。

それにしても、岡山の楠氏他3氏が最初に相談をもちかけたのも岡田商会、そして、そのフ ォードはやがて国産第一歩を生む動機を作らしめ、更に内山氏の手によって、本邦最初のガ ソリン自動車を完成させる基となるのも縁と言えばいえるであろう。
かくて、アッセンブリーカーは国産自動車以前に既に数台が我が国の土を踏んでいたことに なり、明治38年頃まで継続し、明治末年には一旦中絶していたが大正になって盛んになって きたのである。

吉田・三浦両氏の共同経営のオートモビル商会は、本邦自動車発達の初期において草分けゆ えの苦しみが多く、明治37年に経営難のため再び同社を改組することになり、吉田氏がこれ を引き受けて双輪商会と改称したが、乗合自動車を主とする自動車企業が旺盛になったのに 鑑み、資本金百万円の株式会社自動車製作所設立の計画を立てた。これは双輪商会の権利事 業一切を継承して自動車製作をなすとともに、傍系として販売機関東京自動車株式会社を経 営するというのであった。

その創立趣意書によると『重要部品はこれを海外に求め、これに加工して構造し低価かつ堅 牢なる自動車を製作・販売する』というのであった。この企業へは賛成者も多く積極的援助 を約した者も少なくなかったが、日露戦争の国債募集による一般新規事業禁止のため不成立 に終わり、吉田氏は単独で双輪商会を東京自動車製作所と三度び改称、自動車の組立・販売 を行うことになった。本社は東京都京橋区木挽町4丁目9番地に置き、芝区三田小山町3番 地に工場を設けたのである。

従って東京自動車製作所は、我が国最初の自動車製造会社ということになり、同社は1年以 内に非常な飛躍を遂げ、本邦国産自動車工業史上華々しい記録を残す事になったが、惜しく も永続しなかったのである。

明治38年、有栖川宮殿下は、欧米外遊からの帰国の際、ダラック号自動車を持ち帰った。修 理を担当したのが東京自動車製作所であった。その際、有栖川氏より御料車を作らないかと の話しが出、技師であった内山駒之助氏はこれを了承したのである。しかし、自動車工場と はいえ僅か4尺の旋盤1台しかない東京自動車製作所で御料車を作り上げることに吉田社長 は困惑したのであった。

だが、内山技師は「大阪の岡田商会から立派なスケッチをして、持ち帰ってますから、それ によって作れば大丈夫です」と堅き決心を見せたので、吉田社長も自動車製作を了承するに 至った。

いざ自動車を製作することになると、それは容易なことではなかった。これまではアッセン ブルのだったから、比較的簡単なものであったということができるが、エンジンを作る事は 重大問題だった。
まずエンジンを作るには、どんな鋼材を用いるかを研究しなければならない。そこで、東京 の古鉄屋を全部まわり、片っ端から鉄材の片を買ってきては地金の質を調べ、それから鋼材 と同一のものを地金屋に行っては買い集めた。

それを、1台の旋盤で叩いて、機械製品だけはどうにか出来上がったが、難しいのは、シリ ンダーブロックを始めピストンやその他の鋳造物であった。簡単なものと考えていたものに 、意外に手違いを生じて、何回鋳上げても荒吹きして水圧にかけると吹き出してしまう。
そこで、内山氏は腹を決めて、埼玉県川口町(現川口市)に行き、砲兵工廠の下請けをしてい た熟練の鋳造物師について壷引きを教わった。10個位は全部失敗したが、12・3個目になって 漸く快心のものが出来上がった。かくて苦心惨澹、漸く1台の国産自動車が出来上がったの が満1年後の明治40年春のことだった。

最初の長距離運行試験は、多摩川への遠乗りだった。往復30余里を無事走破し、ここに完全 な国産ガソリン自動車が完成したのである。内山技師の歓喜したことは、言うまでもなく、 この運行試験の模様は大々的に新聞紙によって報道されたため、内山技師は一躍本邦自動車 製造の権威者として遇されることになり、同時に予期しなかった自動車購入の注文が殺到し てきた。

だが、舶来崇拝の時代、舶来品のマークは信仰的魅力をもっていた時代であったため、やが て国産自動車の人気は消滅し、しかも国産品はチェーンドライブだったため、舶来のシャフ トドライブ物に押され、17台を作って3台のストックを生じた。これが原因で東京自動車製 作所は資金が枯渇し、ついに中絶のやむなきにいたった。
しかし、この内山技師の作った自動車こそ、異名をもって後世伝えられることになった「タ クリー号」である。当時は名称は無かったのであるが、ガタガタ走るというので、誰かがガ タクリと冷評していたのを、そのままもじって「タクリー」としたのであった。

参考文献:オートモビル社「日本自動車発達史/尾崎正久著(昭和12年10月発行)」
写 真:(社)自動車工業会自動車図書館