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浅間高原自動車テストコース


北軽井沢・浅間山というと避暑地として古くから有名であるが、この浅間山麓に日本のモータースポーツ史における記念すべきレースコースが浅間山麓に存在した。
開催されたのは、通称「浅間火山レース」。正式名称が「全日本モーターサイクル耐久ロードレース」であり、昭和30年(1955年)から年1回づつ4回開催され、数々の名車・名ライダーが生れた。
また、コースからはモーターサイクル専用として使用され日本の2輪産業の発展に多いに貢献された。

第1回浅間火山レース
第1回浅間火山レースは昭和30年11月5日〜6日、群馬県は嬬恋村を舞台に開催された。
コースは当初北軽井沢〜峰の茶屋〜鬼押ハイウェイ有料道路〜鬼押出し〜赤川〜北軽井沢のコースを予定していたが、群馬・長野両県にわたるコース設定では県警同士の公道使用のコンセンサスが得られず、ラップタイムの公表を控えるという前提で群馬県内の一般公道に一部浅間牧場内の施設道路を組入れて行うことになった。(上記コース図)


参加車両は
125ccクラス=28台(6メーカー)
250ccクラス=27台(12メーカー)
350ccクラス=12台(5メーカー)
500ccクラス=14台(5メーカー)

合わせて81台が国産車の性能向上を旗印に、全て国産部品を使用したマシンという規定で出場し覇を競い合ったのである。
出場したライダーたちは北野 元氏や高橋国光氏(第2回出場)をはじめとして、後世に4輪でも名レーサーとして日本のレースに名をを残す強者ぞろいであった。

第2回浅間火山レース

第2回浅間火山レースはこの後に述べる浅間高原テストコースを使用して昭和32年10月19日に開催された。
第1回に出場して意気盛んであったキャブトン、ミシマ、モナーク、サンヨーなどのメーカーは、倒産や生産規模縮小でレース出場どころではなかった。
また、第2回の勝敗の行方は開催前からホンダとヤマハとの一騎打ちになることが予想され、この両陣営に分かれての情報が乱れ飛び凄まじかった。

ホンダ陣営は浅間高原でのレースは毎年開催される前提に基づき、北軽井沢に「ホンダ山の家」を建設した。
メグロもこれに続いたが、第1回に予想以上の快勝を挙げたヤマハは、養狐園(現北軽荘)を借り敷地内に整備工場を急造しただけであった。
また、スズキも養狐園前に土地を購入したものの、営業政策を理由に第2回には不出場であった。
一方、トーハツは当時生産台数ではホンダと肩を並べるほどのメーカーながら、第1回に不出場したことから、新しくレーシングマシンを製作して積極的に出場してきた。
レースはというと、2日前の公式練習で好タイムをマークして優位になったヤマハが本戦でもホンダを征したのである。

第3回以降

ところで、第2回以降のコースであるが、第1回のように再度の公道使用は県警当局の指示により不可能となったことから、専用コースの建設プランが高まり昭和31年6月、社団法人「浅間高原自動車テストコース協会」が国内2輪製造19メーカーによって設立された。
設立に参加したメーカーは、ホンダ、トーハツ、スズキ、トヨモーター、メグロ、クルーザー、ポインター、ヤマハ、ライラック、ヘルス、マーチン、メイハツ、ツバサ、ラビット、アサヒ、陸王、フジ、DSK、ホスクであった。
約3ヶ月の折衝の結果、群馬県有地155430u及び嬬恋村有地29799uを借用が決まり、専用コース建設が決定、同年11月に工事が開始された。
テストコースは、翌昭和32年7月に完成した。



コースは1周9.351kmの火山灰と砂利道で、大きなヘアピン1ヶ所と半径50m以上のカーブが5ヶ所、幅員はスタートから500m付近までが20m、その先が15m、それ以外は8mであった。
また、コースの勾配は最高2.9%のスロープが少しある以外は平坦で、その将来は完全舗装する構想で建設したものだったが、高冷厳寒地のため多額の工事費がかかること、テストコース協会が発足して間もなく、協会メンバーのなかからも倒産脱落していくメーカーが出て、計画は実現しなかった。

浅間高原自動車テストコース協会の解散は、群馬県からの返還要請が以前からあったこと、設立当初19社のメンバーのうち、現存するモーターサイクルメーカーが僅か4社になってしまったことなどから、運営が困難となり昭和53年3月をもって解散となりテストコース自体も閉鎖となったのである。

最近(1998年)、この跡地を訪ねて見た、
テストコースがあったのは国道146号線を軽井沢から北軽井沢方面に走り、峰の茶屋を少し下った右側(売店のすぐ先)であり、ちょうど長野県と群馬県の県境となっている。
今は元の浅間牧場用地となり、当時のテストコース入口もどこにあったか解らないようになってしまっている。
ただ、メインスタンドがあった場所には石が積まれたままになっており、当時を垣間見れるような気がした。

浅間火山レースの記録を保存しているのが、群馬県の運営する「浅間園」の中の別館施設「浅間記念館」である。
昭和60年(1985年)5月に「浅間ミーティングクラブ」と長野原町が協力して開館したものである。

浅間火山レースで使用された車両や、現在ではあまり見ることのできない「メグロ」「陸王」などの大型モーターサイクル、ブリジストンが販売していた小型バイクなどの実車から、当事の「スタート」「ゴール」などの登り旗や、当事のガソリン供給タンクなど、懐かしい物が展示されている。

当時のレースに関しては、写真やビデオ(当時の映像をデジタル化)だけでなく、実際に目で見て手で触って確認することが可能である。

なお、ラヴレガは本来4輪中心とした内容なのですが、このテストコースが日本で初めてのモータースポーツ専用コースであったこと、当時は2輪の契約ドライバーが4輪に転向し、その後のモータースポーツを活気づける原動力となったことなど、この浅間高原テストコースの存在こそがモータースポーツの原点を探る上で非常に大きいものであると思い掲載しました。

参考写真:酒井文人著「浅間からスズカまで」(株式会社八重洲出版/1990年5月発行)
「浅間記念館ホームページ」
2007.2Wikipediaに、この記事を投稿しました。