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4輪への進出〜モータリゼーションの幕開け
中島飛行機は終戦後、富士産業となったがGHQによる財閥解体により、1950年に15あった工場(太田・宇都宮・大宮・田沼・三鷹・荻窪・岩手・三島・小泉・前橋・四日市・半田・浜松・大谷・八戸)は全て独立した会社となった。
三鷹と太田の両工場は富士工業としてラビットを生産。伊勢崎工場は富士自動車工業は鉄道やバスのボディを生産。
この2社が主体となって、大宮富士工業・宇都宮車両・京富士産業の5社が1953年に富士重工を設立した。スバルのスタートである。

ところで、荻窪工場を母体として小型エンジンを生産していた富士精密工業プリンス自動車となって独立したことも忘れてはならない。

スバル360初期

初代サンバー
どの車種に付けられている六連星かわかりますか?
(六連星にカーソルを乗せると回答が出ます)


R2

赤レガ(BF5B)

初代レオーネ ブラット スバル1000

試作車から軽自動車発売まで
鉄道やバスのボディを生産した富士自動車工業が主体となり1954年に試作車P−1(すばる1500)を製作。
製作された「P」はパッセンジャーを意味し、富士重工が初めて開発する乗用車ということで開発コードを「P−1」とされた。
その生産台数は僅かであり、正式に発売はされなかったが群馬ではハイヤーなどでも試用され、データ取りを行なったという。
世界初のモノコック・シャーシーをもった4ドアセダンといわれている。

なお、「P−1」という名は、それ以前より存在した。中島飛行機の中島P−1郵便機である。


P−1 P−1 中島P−1郵便機

スバル360試作車
普通乗用試作車「P−1」を作ったが、当時の設備では量産までは生産設備や販売網が整っていなかったため、軽自動車からスタートすることとなった。
それがスバル360である。国民車構想にマッチさせながらP−1のノウハウを活かしたモノコック・ボディに独自の空冷360ccエンジンを載せた愛嬌あるスタイルは、大ヒットとなった。

スバル360は初代標準車(出目金)からスタートして、マイナーチェンジを図りながら、メカニズムを充実させていった。
サスペンションの改良から、ボディ形状を変更したコンバーティブルや商用に使うコマーシャル。もっと商用を目指してのバン(カスタム)の追加、そして極めつけは当時の軽ハイパワーに準じる「ヤングS」および「ヤングSS」の追加などである。
後継車種のR2にバトンタッチするまで、11年間作られた名車である(R2発売後も併売されていたのは知る人ぞ知る)。

モノコックモデル 横綱吉葉山がオーナー 海外に輸出(スバル450)
コンバーティブル コマーシャル カスタム
初代サンバー

感謝祭にてカスタムカー
スバル360をベースとして1961年2月に初代サンバーが登場。当時は斬新なキャブオーバー・スタイルのRR車である。
軽3輪(ダイハツミゼットやマツダR360)から時代は軽4輪トラックへとニーズが移行していったときにサンバーが生まれたのである。

1961年9月にはワンボックスのライトバンが追加され順調な売れ行きの中、1966年1月に2代目に移行。
私は、この2代目の印象が特に強く残っている。内面的なマイナーチェンジはスバル360同様に誠意的に行なわれたが、やはり印象深いのはドアが後ろヒンジから前ヒンジになったことだろうか。
それだけでも強烈なインパクトがあったことが脳裏に残っている(ババーンサンバーと言われた)。

3代目は「剛力サンバー」。確かに強そうな顔です。モデルチェンジを機に水冷エンジンを搭載したこのモデルは頑丈さを売り文句としてCMキャラクターには貴ノ花を起用した。

4代目には待望の4WDも追加。「軽でも雪国はスバル」というイメージが固定された1台といえるであろう(仙台でも、郵便車などは全てサンバーだった)。

初代サンバートラック 初代サンバーバン 2代目サンバー
2代目マイナー後 2代目ババーン 3代目剛力