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第1回日本グランプリ/前編
第1回日本グランプリは、鈴鹿サーキットを舞台に148台/148人が参加出走し、 昭和38年(1963年)5月3日、4日の両日に11レース開催された。



国際スポーツカーレース

メインイベントである国際スポーツカーレースは1〜3位をロータス23が独占したが、このレースはA1クラス(1000cc以下)、A2クラス(2000cc以下)、A3 クラス(2000cc以上)の混走で行われた。
またスタート方法は、ル・マン式スタートであった。



参加ドライバーは皆外国人であり、日本人は1人もいなく、出場車はロータス23を始めとしてフェラーリ250GT、ポルシェカレラ2、アストンマーティン、ジャガーといった高級スポーツカーであった。

ツーリングカーレース&スポーツカーレース



見慣れない国際スポーツカーレースと違い、ツーリングカーレース&スポーツカーレースには国内でいつも見掛ける国産車・外車が競うカテゴリーであった。
このカテゴリーのクラス分けはツーリングカーで6クラス、スポーツカーで3クラスと非常に細かくされていたが、これは「排気量差がある自動車が一斉にレースをしたら、当然大排気量の自動車が勝つことが目に見えているためで、これでは見る方も走る方も面白くない」という理由で分けることになったのである。
国産車と外車とのカタログを集めて排気量順に整理したところ、このような9クラスになったようである。
その、詳細は下記表でご覧頂きたい。

ツーリングカーレースカテゴリー

クラス 排気量 車名
CT 400cc以下 スバル360、スズライトフロンテ、マツダR360クーペ
CU 401cc〜700cc トヨタ・パブリカ、三菱500、スバル450、マツダ・キャロル600
CV 701cc〜1000cc ダットサン・ブルーバード、日野コンテッサ・日野ルノー、DKW
CW 1001cc〜1300cc ダットサン・ブルーバード、フォルクスワーゲン
CX 1301cc〜1600cc トヨペット・コロナ、ヒルマン・ミンクス、ヴォクスホールVX4
CY 1601cc〜2000cc トヨペット・クラウン、いすゞ・ベレル、ニッサン・セドリック、プリンス・グロリア/スカイライン、フォード・タウナス

スポーツカーレース・カテゴリー
クラス 排気量 車名
BT 1301cc以下 DKW、オースチン・ヒーレー・スプライト、ポルシェ、NSU、MGミジェット、日野コンテッサ、ニッサン・フェアレデー
BU 1301cc〜2500cc ニッサン・フェアレディSP310/セドリック、プリンス・スカイラインスポーツ、トライアンフTR4/TR3/TR2、MGA、MGB、フィアット、ポルシェ
BV 2501cc以上 ジャガーEタイプ、ベンツ300SE、オースティン・ヒーレー

国内各メーカーの参戦体制

第1回日本グランプリは、当初メーカーそのものがワークス体制で出場しないという口約束があったので、出場者はその殆どがアマチュアであり、腕に自信のある者や普段から外車を乗り回している者など、比較的恵まれた環境の人たちであった。
また、レース用自動車もナンバープレートが付いたまま出場しており、ほぼノーマルに近かい車が大半であったといえる。

ところで、自動車メーカーの第1回日本グランプリへの参戦体制はどうだったのであろうか。
これは各メーカーごとに体制がまちまちで、前述の取り決めがあったため表立ってワークス体制が取れないのであるが、レース仕様の車を急遽仕立てて、特定のオーナーに引き渡し必勝体制をとったメーカーもあれば、全く何もしていないメーカーまであったのである。


メーカー名\ レースへの対応状況
トヨタ トヨタ自販からトヨタ自工へとグランプリに関する情報が伝達され、自工が事前に鈴鹿サーキットにクラウン・コロナ・パブリカを持ち込みテスト走行を実施、サービス支援グループをつくり各3台ずつレース車両を製作。
ポート研磨や耐久性重視セッティングを施し選ばれたプライベートオーナーに渡された。
ニッサン 日本グランプリ自体に関心を示さなかった。
フェアレディに輸出用SUツインキャブに交換し、インマニの増大と圧縮比を上げ71馬力→80馬力としてレースに臨んだ。
ニッサンは第11回サファリラリーにブルーバード/セドリックで初めてワークス体制で出場する準備で、レースどころでなかったらしい。
プリンス レース直前になり、グロリアとスカイラインスポーツを出場させたが、レース用車つくりは何もしていなかった。
いすゞ レーシングチームを結成し、ベレルとヒルマン・ミンクスをレース仕様に改造した。
ベレルは出力を従来の90馬力から100馬力とし、ヒルマンは本家イギリス製のスポーツキットを装着。
ドライバーも外国人レース経験者(ドン・ニコルズ他)を起用した。
三菱 昭和37年(1962年)11月にマカオGPでクラス優勝した三菱500とコルト600をそのままの状態でプライベートオーナーに貸し出した。
東洋工業 自動車レースには無関心で、何もしなかった。
富士重工 「絶対に勝てる。勝つに決まっている」と自信があり、スバル360/450の車高を若干低くし、タイヤの空気圧を20%アップさせてレースに参戦しただけ。
日野 メーカーとしては、チューニングはせずプライベートに任せていた。
ラジオ付のコンテッサ900もあったという。
昭和37年(1962年)3月に結成された105マイルクラブ(NAC)中心に参戦した。
鈴木自工 第1回日本グランプリに最も強く反応したメーカー、昭和37年(1962年)3月に4輪自動車に進出したこともあり、スバル360と比較して勝てないことはないと計算し、2輪レースの国内担当班を中心として4台編成のワークスチームを結成した。
ノーマル状態のフロンテの車重はスバル360より105kg重くパワーは3馬力高いので、パワーアップを最優先課題としてチューンアップパーツを製作、サスペンションも固めた。
予選で1〜2位をスバルに奪われると、本選にはバン用の低いギヤに変更して臨んだ。

参考文献:「日本モーターレース史」(且R海堂/昭和55年7月発行)