メーカー名\ |
レースへの対応状況 |
トヨタ |
トヨタ自販からトヨタ自工へとグランプリに関する情報が伝達され、自工が事前に鈴鹿サーキットにクラウン・コロナ・パブリカを持ち込みテスト走行を実施、サービス支援グループをつくり各3台ずつレース車両を製作。
ポート研磨や耐久性重視セッティングを施し選ばれたプライベートオーナーに渡された。 |
ニッサン |
日本グランプリ自体に関心を示さなかった。
フェアレディに輸出用SUツインキャブに交換し、インマニの増大と圧縮比を上げ71馬力→80馬力としてレースに臨んだ。
ニッサンは第11回サファリラリーにブルーバード/セドリックで初めてワークス体制で出場する準備で、レースどころでなかったらしい。 |
プリンス |
レース直前になり、グロリアとスカイラインスポーツを出場させたが、レース用車つくりは何もしていなかった。 |
いすゞ |
レーシングチームを結成し、ベレルとヒルマン・ミンクスをレース仕様に改造した。
ベレルは出力を従来の90馬力から100馬力とし、ヒルマンは本家イギリス製のスポーツキットを装着。
ドライバーも外国人レース経験者(ドン・ニコルズ他)を起用した。 |
三菱 |
昭和37年(1962年)11月にマカオGPでクラス優勝した三菱500とコルト600をそのままの状態でプライベートオーナーに貸し出した。 |
東洋工業 |
自動車レースには無関心で、何もしなかった。 |
富士重工 |
「絶対に勝てる。勝つに決まっている」と自信があり、スバル360/450の車高を若干低くし、タイヤの空気圧を20%アップさせてレースに参戦しただけ。 |
日野 |
メーカーとしては、チューニングはせずプライベートに任せていた。
ラジオ付のコンテッサ900もあったという。
昭和37年(1962年)3月に結成された105マイルクラブ(NAC)中心に参戦した。 |
鈴木自工 |
第1回日本グランプリに最も強く反応したメーカー、昭和37年(1962年)3月に4輪自動車に進出したこともあり、スバル360と比較して勝てないことはないと計算し、2輪レースの国内担当班を中心として4台編成のワークスチームを結成した。
ノーマル状態のフロンテの車重はスバル360より105kg重くパワーは3馬力高いので、パワーアップを最優先課題としてチューンアップパーツを製作、サスペンションも固めた。
予選で1〜2位をスバルに奪われると、本選にはバン用の低いギヤに変更して臨んだ。 |