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第1回日本グランプリ/後編
第1回日本グランプリは、鈴鹿サーキットを舞台に148台/148人が参加出走し、昭和38年(1963年)5月3日、4日の両日に11レース開催された。

パドックの混乱

大会は、公式予選・本戦(決勝レース)を通してパドックが大騒ぎだった。レギュレーションも現在のように細かく規定されているわけでもなく、その解釈を巡り主催者・参加者間で議論も起きた。
レース車検についても同様であった。これはレース車検そのものがどのようなものなのかを知っている人がいなかったからで、初めてのレースはいろいろなことが後の課題となった。

レースの結果



CYクラス

第1回日本グランプリの結果は、果たして周到に準備を擁した自動車メーカーのファクトリーチームが勝利をおさめた。
その中でもトヨタはCUクラスはパブリカで1〜7位独占(完全プライベート含む)、CXクラスはコロナが2位になったヴォクスホールが走行妨害で失格となったため1〜3位を独占、CYクラスはクラウンがスタートからゴールまでをトップで走りきるなどの快挙をみせたのである。



CXクラス

CTクラスでは、パワーアップとギヤ比変更によってスズライトフロンテが1〜2位を占めた。



CTクラス

BUクラスで純粋なる国産スポーツカーであったフェアレディSP310は後のSCCN(スポーツカークラブ・オブ・ニッサン)の会長となった田原源一郎が、絶対優勢と見られていた外国スポーツカーを相手にせず独走した。



BUクラス

日野コンテッサはスポーツカークレースでDKWに敗れたが、逆にツーリングカーレースではDKWを破り面目を保った。



そして、レースによる勝利=市販車両への販売台数の増大が見込めると悟った各メーカーは走る広告塔としてレースを位地ずけ、各メーカーがファクトリー体制を整え、第2回日本グランプリへと舞台が移っていくのである。

参考文献:「日本モーターレース史」(且R海堂/昭和55年7月発行)