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第2回日本グランプリ/前編

第2回日本グランプリ自動車レースが開催されたのは、昭和39年(1964年)5月2日・3日の両日で、第1回と同様に鈴鹿サーキットで行われた。
主催者がJASAからJAFへと継承されたが、それ以外は前年とほぼ同様であった。
この第2回日本グランプリのメインイベントは「FJ(フォーミュラー・ジュニア)レース」で、日本で初めて行われたフォーミュラーレースであったが、前回と同様に観衆の注目は各メーカーの国産車が激しくデットヒートをすると予測されたツーリングカーレース&グランドツーリングカーレースであった。

各メーカーの臨戦体制

自動車レースのルールブックとなる国内競技規則が昭和39年(1964年)4月1日に制定された。
前年8月にJAFスポーツ委員会が結成され、約8ヶ月かかって纏められたのである。これまでは、FIAルールはあったものの、国内に関する限り正式なルールブックが無かったので、これが日本で最初にできた自動車レースの規則書となった。
このルールが手始めに適用となったのが5月に開催された第2回日本グランプリであった。
つまり第2回日本グランプリこそが日本のレース史上において、運営が整然とおこなわれた初めてのレースといっても過言ではないであろう。

この第2回日本グランプリは、当時すべての自動車メーカーがなんらかの形でファクトリーチームを送り込んで戦うという史上初のレースであった。
レースに取り組むプロジェクトは、各メーカーごとに異なってはいたが、レース必勝を期して各メーカーとも鎬を削っていたといえる。
出場予定車両の性能アップはさてより、優秀なドライバーの獲得こそが勝つための必勝条件となった。
ドライバーの公募や2輪レースからのヘッドハンティングなどが行われた。

また、タイヤの重要性が第1回日本グランプリ終了後に改めて知らされた各メーカーは、優秀なタイヤ獲得のために必死になった。
特にトヨタ自工はブリジストンと契約を結びBSレーシングタイヤの使用権を取得したし、プリンスなどは英国製ダンロップレーシングタイヤを空輸(当時、空輸することだけでもお金がかかった)して競技車両に装着したりして、1秒でも他車よりも速くする努力も行っていたのであった。

それでは、第2回日本グランプリにむけての各メーカーの参戦体制を詳しく見ることにするが、第1回と比べてどのように変わったのであろうか、

メーカー名 レースへの対応状況
トヨタ 苦戦が予想されたクラウンは「S」というツインキャブ装着車を出し、パワーアップを図った。
また、第1回とほぼ同じような体制、サービス支援グループをつくりレース車両を製作、ポート研磨や耐久性重視セッティングを施しレースに臨んだのである。
ニッサン 第1回における反響が高かったので、正式にブルーバード1200SS(410)・フェアレディ1500とレース直前にセドリックを競技車両として投入した。
また、社内体制の整備と、田中健二郎、鈴木誠一(後に東名自動車を設立)ら2輪トップライダーを集めた。
プリンス 第1回においてプライベーターのサポーターに徹して惨敗となった同社は、全社一丸となりレースに取り組むことになった。
1963年秋にレースチームを10名編成とし、契約ドライバーとなった生沢徹と社内ドライバー3名とともに競技車両の開発を始めた。
このとき、2代目グロリアに6気筒SOHCエンジンを積んだスーパー6と2代目スカイライン1500が発売されていたこともあり、走行性能も十分であったためこれをベースに開発することになった。
また、改造範囲の広いGTクラスへの参戦することになり、スカイラインのホイールベースを延長しグロリアの6気筒エンジンを搭載したスカイラインGTを製作しホモロゲを獲得した。
いすゞ ISCCの誕生を機にユーザー主体のチームを作り、パーツの市販でバックアップすることとなった。
ワークスチームは前回とほぼ同じメンバーであり、マシンの中味はユーザーチームと同程度であった。
三菱 新発売のコルト1000をフルチューンした。
三菱のレーシングエンジンをチューニングテクニックの基礎がつくられた。
東洋工業 キャロル360/600のエンジンをチューンし、360で30馬力以上、600で45馬力以上にパワーアップさせた。
ドライバーは2輪ライダーだった片山義美をスカウトした。
富士重工 前回で、スズライトフロンテに惨敗を期して、どうしても雪辱しなければならないと全社をあげて取り組んだ。
18人編成のプロジェクトチームを作り、本格的なチューニングにかかって36馬力へパワーアップさせたスバル360レーシングを導入した。
最高速度137km/h、0→400mが18.4秒の高性能を誇るまでになった。
本田技研 前回は出場していなかったが、今回はホンダS500/S600を発売したばかりだったので、これをチューニングした。
S600は631ccにまでボアアップし、パワーもノーマルの57馬力→72馬力となっていた。
F1世界選手権への参加も正式に表明し、契約ドライバーのロニー・バックナム、北野元、永松邦臣のグランプリライダーおよび社員を起用して参加。
日野 コンテッサ900をチューンし、軽量化を図り戦闘力の増強に努めた。
このメーカーだけがオープンにテストやトレーニングを行い、楽しく自動車レースを行う雰囲気だった。
鈴木自工 前回と同じく4台体制で臨んだ。パワーアップに重点を置かれてチューニングを施し、エンジン出力も前回27馬力→37馬力へと大幅に向上されていた。

参考文献:「日本モーターレース史」(且R海堂/昭和55年7月発行)