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明治から昭和初期までの日本の自動車レース

明治時代
日本人と自動車レースの関わり合いは意外に古く、今から90年以上も前の明治40年(1907年)、 イギリスのブルックランズ・モーターコースが誕生した年で、その場所も同コースであった。
第1回ブルックランズGPレースが開催された7月6日、1人の日本人が2段変速のフィアット レーシングカー100馬力で参加し、2位でゴールインしたのである。この人こそ、「vol.2」 に登場し、タクリー号の東京自動車製作所に出資し、後に「ホテル・オークラ」をつくった大倉喜七郎 であった。

大倉喜七郎氏とフィアット100馬力

ブルックランズ・モーターコースは、かの有名な「インディアナポリス・スピードウェイ」の見本 となったコースであり、この明治40年は日本でも国産ガソリン第1号車「タクリー号」が誕生したのだ から、日本の自動車レース史は世界的に遅れていたわけでもなく、また日本のモータリーゼーションと 同時に始まったのである。
ところで、その後即刻帰国した彼はこのフィアットを含め3台のレーシングカーを持ち帰りった。 時を同じくしてアメリカの飛行機野郎マースが明治44年4月に来日し、川崎競馬場で日本人2人の駆る 自動車と1マイル競争をした。結果は僅か14馬力の車では飛行機に到底かなわず惨敗を期したが、 これを聞いた彼は、フィアットを同場に持ち込み5月2日に2マイル競争に挑戦し、飛行機に12秒の大差 をつけて圧勝したのであった。

大正時代
日本で自動車同士による自動車レースが開催されたのは、大正3年(1914年)3月のことであった。
アメリカはロス在住の日本人が自動車レースチームを作り訪日し、目黒競馬場で自動車レースを見せた のである。明治から大正にかけてのアメリカでは、このような自動車レースの地方巡業が盛んに行われて いた。しかし、日本では自動車レース自体がまだ浸透しておらず、赤字続きで失敗に終わったのであった。

で本格的に自動車レースが開催されるようになったのは大正11年(1922年)からで、大正15年までの5 年間で計11回の日本自動車レースが開催された。この記念すべき第1回は報知新聞社主催で東京・州崎に ある埋立地で開催された。参加台数は4台、マーサーの屋井三郎・チャルマーの内山駒之助(タクリー号を 製作した東京自動車製作所の内山技師その人である)・ハドソンの藤本軍次・プレミアの関根宗次であった。 新聞社主催の関係もあり、5万人の観衆が押しかけ盛況のうちにスタートとなった。4台でのレース直前に なり警視庁から「2台以上の同時走行はゆるさん」とクレームが来たため、やむなく2台同士のタイムトライ アルに変更となり、内山駒之助が優勝したのである。

第1回自動車レース

当時、特設コースが作られレースが開催されていたが、つくられた場所は州崎・鶴見・砂町・月島と いった埋立地や代々木・立川といった練兵場がほとんどであった。この埋立地が曲者で、前日に雨でも降れば一面泥地と化してしまい、 レースどころではなかったのである。
なお、自動車レースは大正15年(1926年)の年末に第11回日本自動車レースが開催された以後は適当な場所が 見つからず、昭和9年(1934年)まで中断されたのであった。

昭和初期
埋立地を利用した自動車レースが再開されたのは昭和9年(1934年)10月、月島4号埋立地に1マイルコース を作って「全日本自動車競争選手権大会」が開催された。しかし、この時も前週に行われるはずだったのが、 雨により1週間順延された。
常設の自動車レース場を作らないと会場難の解消には至らないと、大正時代に自動車レースを推進した藤本 軍次と報知新聞社にいた金子常雄らは企画し日本スピードウェイ協会を創立、多摩川沿いにあったオリンピ ア球団跡地に所有者の東横電鉄(現在の東急電鉄)と交渉して、昭和11年5月9日(1936年/私TANAの誕生 日!)に日本で初めての多摩川スピードウェイが誕生した。

多摩川スピードウェイ

長径450m、短径260mのオーバルコースで、1周1.2km/幅20mのトラックで、自動車運転試 験場としても使用可能にして、トラツクの内側にはサイクルレース用の小トラツクも併設された。また、 3万人収容できるスタンドも作られたのである。
このオープニングレースは「全日本自動車競争大会」と銘打って6月7日に開催された。メルセデス・ハップ モビル・カーチス・インヴィクタなどの外国勢と、オオタ・ダットサンの国産小型レーサーも参加し話題を 呼んだのである。この多摩川第1回競争大会の話題は、本田宗一郎・弁二郎兄弟であり、フォード8バルブ を16バルブに改造した「浜松号」で出場し猛スピードでコーナーを回り転覆したのである。幸いなことに2人 とも車外放り出されたため命には別状なかった。なかなか速い車だったらしい。

全日本自動車競争大会

多摩川スピードウェイを舞台にした自動車レースは昭和14年(1939年)まで6回開催された。この間、大正11 年の第1回日本自動車レース以来、皆勤していた内山駒之助が昭和12年に多摩川第3回自動車競争大会の3 日前に55歳の若さで死去するといった悲しい出来事もあった。

戦後の動乱期
第2次世界大戦の終結から、昭和37年(1962年)に鈴鹿サーキットが誕生するまでの17年間は、進駐軍のモー タースポーツマニアを主体に、日本各地で自動車イベントが開かれた。
戦後の動乱期が収まり、昭和25年(1950年)に朝鮮戦争の特需景気で日本経済は好況になり、昭和26年には 駐留軍人と若干の日本人とでSCCJ(スポーツカークラブ・オブ・ジャパン)が創立され、特設コースを 作り自動車レースが盛んに行われた。

本田総一郎とカーチス号
4月にはダートトラックの船橋競馬場でSCCJ主催の日米対抗自動車レースが開催され、MG−TDな どが主力マシンであった。また、12月には千葉県茂原飛行場でスポーツカー3時間耐久レースが開催さ れた。舗装の滑走路にパイロンを立てて特設コースを作ったのである。
昭和26年には、船橋/川口の両オートレース場で5回の自動車レースがSCCJ主催により開催された。 その他、日本版ミレ・ミリアといわれた東京・京都ロードレース(こんなの現在はできないよね!)が9月 に開催され、駐留軍人13人により東海道をひた走り8時間43分かかりMG−TDがゴールインした。
この時期の日本における自動車レースは、駐留軍人主導のもと開催されていたのであった。

参考文献・写真:「日本モーターレース史」(且R海堂/昭和55年7月発行より抜粋)