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日本で最初の本格的レースコース、鈴鹿サーキット



いまや世界のスズカとして2006年まで「F1グランプリ」が開催されていた鈴鹿サーキットは、グランドスタンドの収容人数は7000席+その他観客席12万席という日本最大規模を誇る著名なサーキットである。
この鈴鹿サーキットは、日本で初めての全舗装による本格的レース場であるり、鈴鹿サーキット以前にも自動車レース場はあるにはあったが、全てダートコースであり、オートレース場(これも当時はダートコース)なども借りて 自動車レースを行っていたのが現状であった。

鈴鹿サーキット建設計画は、昭和36年(1961年)2月に蒲骼ュサーキットランドの前身である潟a[タースポーツランドが、当時はまだオートバイの専業メーカーであった本田技研の全額出資で、東京都中央区京橋に本社が設立されたのに始まる。
これより1年ほど前の昭和35年にこの基本がスタートしたわけであるが、その背景にはオートバイの本格的普及を目指すことと、カミナリ族に対するオートバイメーカーへの批判をメーカー側としての回答「オトキチたちにゲレンデを 与え、なお且つ安全運転に対してのアドバイスを行う」ことであった。


サーキットの建設には10億円以上の投資が必要となったため、本田技研内部でも一部批判的意見もあったが、本田宗一郎社長とその右腕であったた藤沢武夫専務により、社内も建設の方向へと纏まったのである。
鈴鹿サーキットの誕生の意義は、自動車レースそのものつまり興行的なものではなく、交通教育センターや自動車遊園地の建設などからも解るように、モータリーゼーションの周知のため、また幼少の頃よりエンジンに慣れても らい親しませることなどが根底にある、いわゆる社会的意義に重点を置いていたといえる。そして、この意図・思想は今日も鈴鹿サーキットの重要な経営方針となっているのである。

昭和35年(1960年)12月1日から31日まで、サーキット建設に伴う調査団3名が、イタリア・モンツァ、西ドイツ・ホツケンハイム、ベルギー・フランコルシャンなどの欧州諸国の著名なサーキット10ヶ所を視察した。これは、日 本での本格的サーキット場レイアウトの構想を持っての視察であり、内部施設・コース状況から運営規則・資料等まで多々に渡り調査した上で帰国したのである。


鈴鹿サーキットは、オランダ・ザンドフィールド・サーキットなどを設計したジョン・フーゲンホルツのアドバイスによりレイアウトが決定され、昭和37年(1962年)9月20日に完工式を迎えた。ここに全長6004m、トラック幅9〜12mのコースが完成したのである。

オープニングレースは2輪による11月3日の第1回全日本選手権ロードレース大会であった。これは当時、世界的に有名なライダーを招いて開催された日本初のロードレースであった。
また、敷地内に自動車遊園地が昭和38年(1963年)3月に完成したのに加え、同年5月に「第1回日本グランプリ」が開催された。その後、日本グランプリを始めとする各種レースが開催され、「国際レーシングコース」を目的として、国際スポーツ委員会のアドバイスのもと昭和52年に大改修を行い、全長5864.03mのコースとなった