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レースへの挑戦、スカイライン伝説とR380


スカイラインGT(S54−T)

第2回日本グランプリは昭和39年5月(1964年/私が生まれた年月である)に開催された。
グランプリで勝つことを前提として作られ、100台を生産してホモロゲを取得し万全の 体制でレースに臨んだスカイラインGTであったが、ここに強力なライバルが出現した。 ポルシェ904GTSである。当時トヨタの契約ドライバーだった式場壮吉がエントリー してきたのである。
タルガフローリオでも優秀な成績で上位をゲットしてきた純粋なレーシングクーペと レーシングマシンとはいえセダンを急きょ改造したスカイラインGTとではレース開始前から 結果は分からずとも知れたものであった。

ところが、予選でスターティンググリッドを征したのはゼッケン41・生沢徹のスカイラインGTであった。 ポルシェ904GTSは、クラッシュにより予選3位であった。
この意外な展開に興奮のるつぼと化した決勝レースは、前日夜からの必至の修復作業で本戦 に参加したポルシェ904がリードした。生沢徹のスカイラインGTも負けじとポルシェに くらいつく!そして7周目、ヘアピンカーブでの出来事。デグナーカーブでポルシェを捕らえた 生沢徹のスカイラインGTはアウトからポルシェを抜いていったのである!
しかし、動力性能の差はどうしようもなく9周目には再びポルシェがトップとなりそのまま チェッカーを受けた。この7周目の出来事がスカイライン神話の始まりとなった。後にこれは式場と生沢の 「友情の1周」との真相が明らかになったが、スカイライン神話を決定づけるのには必要十分であった。


衝撃的なワンシーン(日産コロッセオより)

グランプリには敗れはしたが、スカイラインの名声は一気に高まりGTを求めるユーザーの要望に 応えて、ブリンスはスカイライン2000GT(S54−U)として昭和40年(1965年)2月に生産開始した。
T型ではS50のインパネをそのまま流用し、タコメーターもダッシュ上に置いてあったものを、専用の インパネに変更し、LSDや5速MTが用意された。また、同年9月には最高出力105psシングルキャブ仕様の廉価版2000GT−A型 を追加、これにより従来からの3連キャブ仕様は2000GT−Bと言われることとなった。 外観上の違いとしては、GT−Bがエンブレムが赤色に対してGT−Aは青色となる。これは丸テールと並んで現在も引き継がれている スカイラインの原点ともいえる。
そして、日産との合併後の昭和41年(1966年)10月、プリンススカイライン2000GTの最終型であるS54−V型が発売された。 エンジン性能は変わらないが、以前はオプション設定となっていた5速マニュアルと機械式LSDが標準となり、リアフェンダーもレース用 幅広タイヤを装着できるようにワイド化された。つまり、S54−V型こそがレース出場を前提とされた究極のスカイラインであった。


スカイラインGT−R(KPGC10)

1968年7月、日産との合併後ら3代目として発売されたのが4ドアセダンのGC10スカイラインである。
先代のシャープなデザインとはうって変わり、微妙な曲線と曲面が多用された「エアロ・ダイナルック」と呼ばれる斬新なボディシルエットが特徴的で、先代より引き継がれたリア・ホイールアーチ付近の特徴的なアクセントラインが、それからサーフィンラインという愛称で呼ばれ、GC210(ジャパン)まで継承されていきます。
発売当初は1500CC/1800CCの2種類のエンジンが搭載され、特に1500CCエンジンはプリンスの開発したG型を搭載していた(1800は日産のL型)。
9月にはフロントノーズを延長し、L型エンジンを搭載した2000GT(GC10)が発表され、翌年2月に待望のレーシングスピリッツを持つ2000GT−R(PGC10)が発表された。

2000GT−Rの心臓部は、R380のエンジンをデチューン(1969年にプリンスの技術者によって作られた)直列6気筒4バルブDOHC2000ccS20型エンジンを搭載。数々のレースにも出場した。
1970年になり、スカイラインにハードトップが加えられ2000GT−Rもそちらに移行。
レースでの50連勝というGT−R伝説は、1969年のJAFグランプリでサーキットデビュー・ウィンから始まった。
パワーで勝るロータリー勢の追撃をチューニングと、日本初のドリフト走行を実践した高橋国光の超絶テクニックで補い、伝説の50連勝を達成。
その記録は今も破られていない。


プリンスR380

スカイラインと並行して、本格的なレーシングマシンをプリンスでは開発していた。 昭和39年(1964)7月に開発が始められた「プリンスR380」である。
「プリンスR380」はスカイラインGTとは違い、FIAのグループ6カテゴリーに属する純粋な レーシングマシンである。試作1号車は、シャーシーを当時レーシングカーキットを販売していた ブラバムBT−8Aの鋼管スペースフレームを流用し、アルミ製のボディを載せた。 また、空気抵抗を軽減するため風洞実験を繰り返されて完成したそのボディは、低く幅広くなっていた。 パワーユニットは、スカイラインGTと同じく直列6気筒だが、GR8と命名された新開発のエンジンは DOHC2000cc、1気筒あたり4バルブ化されており、最高出力は200ps/8000rpm以上 と公表されていた。
昭和40年(1965年)7月に第1号車が完成、谷田部の自動車高速試験場(現JARI) でのスピード記録に挑戦、しかし1回目はクラッシュで断念し、2回目ではギヤボックスのトラブルに見舞われ国内記録としては公認されたものの 世界的な記録達成までは至らなかった。
そして昭和41年(1966年)の第3回日本グランプリには、改良型のR3804台(ゼッケン9・10・11・12)が出場し、J砂子義一が駆るR380が 見事優勝を飾った。このときのライバルはタキレーシングから出場していた滝進太郎のポルシェカレラ6であった。


ニッサンR381−2

昭和43年(1968)、日本グランプリの“レギュレーション”が変更され、アメリカで人気のあったCANーAMシリーズ仕様のマシンも出場できるようになった。

トヨタ・日産・タキ(T.N.T 対決)は、これに合わせて、新型車を導入。トヨタは“トヨタ7”を開発。タキレーシングは生沢選手が“ポルシェカレラ10(910)”での参戦に加え、 長谷見選手らが “ローラT70MKIII”を駆る。
これに対抗するために、日産プリンスは富士スピードウェイでテストをすでに行っていたニッサンR−381をカンナムカー仕様にするために、ルーフとリアエンドを外した改良型を開発。
心臓部には本来なら自社製V12-5Lを搭載する予定であったが間に合わず、アメリカでチューンされたシボレー製V8-5.5Lエンジンを搭載した。

このクルマの特徴は、その容姿から「怪鳥」と呼ばれたリヤにそそり立つ2枚の羽である。
当時“スタビライザー”と呼ばれたリヤウイングは、カーブのときに可変し車体を曲がりやすくするための制御がされていた。
果たして、10万人の大観衆の前でのTNTの大バトル。そして決勝では北野元が駆るニッサンR381−2がポルシェを周回遅れにして優勝を飾ったのである。

参考文献:ネコパブリッシング「JAPANESE HISTORIC」
:グランプリ出版「自動車の世界史」ほか
資料協力:Air Modellers Club コックピット
写 真:(社)自動車工業会自動車図書館