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富士重工〜飛行機からスクーターへ
富士重工の前身である中島飛行機は1917年(大正6年)12月、創業者である元海軍機関大尉の中島知久平が「飛行機研究所」を起こしたことで歴史がはじまった。
中島は、海軍時代1913年「日本海軍式水上機」を設計・製作および1915年「中島式試作水上機」を設計・製作していたが、世界の水準に追いつくために民間航空産業に身を投じて退官。
群馬県尾島町の生家の近くでの一人からの船出が中島飛行機のルーツである。

(左)1915年海軍横廠式中島トラクター試作水上機
発動機:ベンツF-D直列6気筒
日本人設計の最初の牽引式で1915年1号機が完成。

(下)1913年日本海軍式試作水上機
発動機:ベンツF-D直列6気筒


(下)1920年中島式五型偵察兼練習機
発動機:ホールスコット


横廠式口号甲型水上練習機 14式3型水上偵察機 90式艦上戦闘機
横廠式口号甲型水上練習機 14式3型水上偵察機 90式艦戦(A2N153)

太平洋戦争までの航空機


1931年に中島飛行機株式会社となり、陸軍や海軍の要望に応えるかたちで、数々の名機を生み出していった。

特に、有名なのは陸軍一式戦闘機“隼”は映画“加藤隼戦闘隊”などでも周知されているが、戦闘機では“二式戦闘機「鍾馗」”や“四式戦闘機「疾風」”、そのほか97式艦上攻撃機や“百式重爆撃機「呑龍」”なども製作された。



二式戦闘機「鍾馗」 四式戦闘機「疾風」 百式重爆撃機「呑龍」
二式戦闘機「鍾馗」 四式戦闘機「疾風」 百式重爆撃機「呑龍」

スクーターの製造開始
ラビット
終戦直後、軍需産業であった中島飛行機はGHQの命令で航空機を生産できなくなったため、富士産業と改称、航空機製造技術を活かした民需品の生産に生き残りをかけた。
そして、ラビット号の誕生となるのであるが、その原点はアメリカ軍用のスクーターが太田の呑竜工場に持ち込まれたことである。

「隼」の生産に携わっていた技術者たちは、これを手本に我が国の交通事情に合ったスクーターを設計し、陸上爆撃機 「銀河」の尾輪をつけた2馬力135cc のスクーターを「ラビット」の愛称で発売。
その後、改良車を次々と発売し、ラビットは市場の人気を独占し国民の足となり、スバルは自動車メーカーの道を歩き始めたのである。

ラビット初期型 ラビットS601 ラビットS202
ラビット ラビット ラビット