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快進社(ダット号)


明治39年、日本で唯一の自動車会社であった東京自動車製作所は資金難のために没落に瀕 し、3台のストックを抱え込んだため資金が枯渇して製作を中止していた。

ところで、明治30年に英国に留学し、ケンブリッヂ大学で学んだ男爵の御曹司であった大 倉喜七氏は留学当時から自動車にのめり込み、自身が自動車技師として名を馳せ、また創 成期を迎えた英国のモータースポーツへの参加なども経て、自動車に関してまれに見る才 能を発揮していたが、その大倉氏が日本に帰国した際、日本での自動車産業が欧州から大 幅に遅れを取っているのを知り、早速東京自動車製作所社長の吉田真太郎氏を招き、資金 援助を申し出たのである。

大倉財閥を後ろ盾に得た吉田氏は、東京自動車製作所を百万円の株式組織にしようと目論 んだが時は既に遅く、明治42年になり、同社はついに現在で言う会社更正法の申請をする に至ったのであった。大倉氏はこの際、出資額が約8万円に上っていたがこれを回収する 見込がないので同社を引き受け、出資額2万5千円の「大日本自動車製造合資会社」として 更正することになった。明治42年7月のことであった。

かくて、大日本自動車製造合資会社が本邦自動車製造・販売を通じて最も充実した最初の 会社となり、後に大倉が自動車財閥として堅固とした地位を築くに至ったのである。
しかし、困難な自動車製造事業からは漸次手を抜き、同社は外国製自動車の輸入販売を主 とした商事会社となり、自動車製作は行わなくなったため、東京自動車製作所創設者であ った吉田氏一派は会社を退くに至り、その後大日本自動車は事業縮小のため、小山町工場 へ本社を移した。そして、更正の実を挙げるに至らず、合資会社として改称を繰り返した のち、大正3年に「日本自動車株式会社」と変更になったのである。

この最中、一人の青年が自動車に興味を持ち大倉氏に接近した。後に快進社を起こす橋本 増治郎氏である。彼は若き技術者として内燃機の勉強のため、明治35年渡米しオーバンと いう町のシーモアという工場に技師見習として勤め、内燃機について一通りの研究を終え て明治40年になり帰国に至った。

しかし、いざ日本に帰ってきても自分の経験を活かせる自動車産業たるものはなく、職を 得なければ食べてはいけぬと知人の紹介で佐世保市郊外の九州炭坑に技師として勤めるこ とになった。だが、自動車を作りたい希望を捨てることも出来ず、石炭が出るようになっ たら炭坑を止めるとの条件で九州に渡ったのである。
明治43年ようやく石炭を掘り当てた彼は、無理に九州炭坑を退職し、明治44年春に上京し 自動車製作に着手する準備を行った。

そして、知人・友人を頼っては資金援助を要請したが、賛助する者もおらず独立独行する に至り、当時大会社であった日本自動車に接近して援助を頼む他ないと、知人を介して大 倉氏に会ったのである。

だが、大倉氏は「絶対儲かることはないから止めなさい。サラリーマンがそんなことに手を 出せばやがて食うに困ることになる」と反対されたのであった。
しかし大橋氏もそんなことに参るほど、腰の浮いた計量ではなかったので、頑として大倉 氏の忠告に反発したところ、大倉氏もそれを受け入れ毎日日本自動車の工場に通うことが できるように繋いでくれた。


ここで、大橋氏は一通りの工場概要を覚え職工を得る方法も諒解した。また、注文してい た機械も出来上がったので、日比谷に小さな工場を設けて、製函・鋳型等の自動車製作基 礎工作を始め、事業も間もなく軌道に乗り麻布区広尾町の市電天王寺車庫裏に工場を移し、 快進社として正式に自動車製造に着手した。

明治44年になり、第1号車が完成。橋本氏は涙を浮かべて職工や知人らと喜びあったので ある。そしてこの自動車の命名について考えた末、工場の基礎を作る事ができた恩人、九 州炭坑所長「田 健次郎」氏の「D」、九州炭坑所の技術顧問で、橋本氏の事業を励ましてく れた「竹内明太郎」氏の「T」、ただ1人の友人「青山禄郎」氏の「A」の頭文字を取って「DAT 」と呼ぶことになったが、知人の中には、「脱兎のごとく/ダット」の意味から「脱兎」とした らどうかと薦める者もあり、スピード機関としてはなるほどその方が相応しいというので 一時「脱兎」と変えていたが、恩人や知人を慕う意味でやはり「DAT」に逆戻りした。
ダット号
しかし、この第1号車は調子が悪く白日の下に成果を収めるには至らず、一度解体して作り 直すことになった。こうして出来た第2号車(1号車改)DAT号は、大正3年の大正博覧 会に出品され見事金杯を獲得、孤車奮闘の甲斐あってその売れ行きも上々となった。
このDATこそ、幾度か資本を変えながら、後のダットサンとして生まれかわっていくの である。

参考文献:オートモビル社「日本自動車発達史/尾崎正久著(昭和12年10月発行)」
写 真:(社)自動車工業会自動車図書館