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日本で生まれた軽自動車


オートサンダル

軽自動車が初めて世に出たのが、昭和27年のこと名古屋に本社を置く中野自動車工業鰍ェ完成させた「オートサンダル」である。もともと中野自動車工業は3輪トラック「ヂャイアント号」を製造・販売するメーカーであったが、戦後の軽オートバイ全盛期に、風雨に影響されることなくオートバイ免許で乗れる4輪車ということで考えられたのが「オートサンダル/試作車」であった。

名前もサンダルを履くように手軽に乗れるようにとの願いを込めての命名であったそうである。この試作車は三菱メイキ製サイドバルブ248ccエンジンを搭載し、FR方式で重量物リヤカー用を流用したタイヤを駆動したと言われる。同年12月には中野自動車工業鰍ェ母体となり「オートサンダル」の製造・販売を目的とする日本オートサンダル自動車鰍ェ名古屋市昭和区に設立された。翌年(昭和28年)には量産車が完成し、本格的にオートサンダルの生産が始まったのである。


試作車が戦前のT型フォードを曲線化したようなラインであったのに対し、量産型「オートサンダル/ロードスター・ローリー」は小型車の縮小版のようなデザインとなった。搭載されるエンジンは三菱メイキ製空冷4サイクル単気筒サイドバルブ349ccのRR車であった。

昭和29年には、オートサンダルはフルモデルチェンジを行った。エンジンを自社製2サイクル2気筒238cc水冷10馬力に変更し、駆動方式もRRからFRになった。パワーが倍近くに向上したことにより最高速度も従来の50km/hから70km/hになった。また、ボディも平面が多用され、FR化に伴いトランク部分が大きくなったことにより、積載量も50kg増加となった。
オートサンダルはこの2年間に200台を販売し生産を終了、2年間に渡る軽自動車製造に幕を閉じたのである。


NJ号

昭和28年、日本軽自動車が横浜市南区井土ヶ谷仲町で製作した「NJ号」が関東地域では初の軽自動車となった。このNJ号は強制空冷V型2気筒OHV、排気量358ccエンジンをリヤに搭載したRR方式を採用していた。またモノコックボディの採用も特徴であった。NJ号はニッケイタローが出るまで通算85台生産されたのである。


ニッケイタロー

昭和30年にはFR方式の「ニッケイタロー」が発売となった。NJ号のRR方式からFR方式への変更は積載量増を考慮してのこと(当時はFFはまだ未成熟だったので)である。車種構成は2人乗ピックアップトラック(200kg積)と3人乗ライトバン(150kg積)があった。総生産台数は昭和31年が169台、昭和32年が17台であった。
なお、ニッケイタローが生産中止となった後、これを引き継いで日建機械工業によってニッケイタローのボディに一部手を加えて昭和33年12月に「コンスタック」という名でCLライトバンとCTトラックが発売となった。エンジンも改良が施されたが、一番の変更点はミッションが今までの3速から4速になったが、成功せず昭和36年までに145台が製造され、生産が終了となった。


フライングフェザー

フライングフェザーは当時の日産車デザイナーであった富谷龍一氏の設計であり、日産車のボディを製作する住江製作所によって昭和29年に発売され、1年間で僅か48台が世に出たに過ぎなかった。
しかし、その構想は昭和25年に溯りドイツのハノマークという軽量シンプルな低価格車を日本でも走らせたいという理念から生まれたのである。写真でも見て解るように、ボディ鋼板はできるだけ薄く作られており、使用量や工程を考え平面多用で構成されていた。
バネ下重量の低減を図るために、タイヤはより細いもの、すなわち重量運搬用リヤカーのものがホイールごと使用されていた。


エンジンは試作段階ではガス電製4ストローク単気筒SVが使われていたが、この振動が大きく問題になったことから、自社製2ストロークV型2気筒エンジンも試作されたが、結局自社製4ストロークV型2気筒350ccエンジンを搭載することになり、運動性能も他の軽自動車よりも良いと専門家の間では好評で迎えられた。
しかし、市場は普通車の小型版を軽自動車に望んでいたために、この軽量車は失敗に終わってしまったのである。しかし、この設計思想がもし現在だったならば、エコロジー構想の中でヒットしたかもしれない。出てくる時代が早すぎた名車といえるであろう。


フライング・フェザーMKU

富田龍一氏により、スバル360のエンジンを用いてセントラル自動車で1960年に作られた、総アルミボディの試作車がフライング・フェザーMKUである。
ロングノーズなスタイルはどことなく、ロボット刑事Kのジョーカーに似ている。ボンドカーといっても通用しそうなデザインである。


フジ・キャビン

「フジ・キャビン」は前述フライングフェザーの設計者である富谷龍一氏が富士自動車に移籍してから手がけた作品である。
富士自動車は、ガス電で知られる東京瓦斯電気工業を買収し、同社が生産していた2ストロークエンジンも受け継ぎ、2輪車のアッセンブリーとしてエンジンを供給しながら、自社も2輪車メーカーとして生産していた。
その後、市場の需要が軽3輪に移るときに全天候型の3輪軽自動車として開発されたのである。いままでの軽3輪自動車が前1輪・後2輪であったのに対し、前2輪・後1輪であることはドイツの設計思想を研究していた富谷氏の理想が現実となったモデルといえる。これに被せられているのがFRP製フルモノコックボディーである。当時FRPをクルマに流用するということ自体が未知のものであったが、鉄板に比べて軽さという点で採用したのである。つまりフジ・キャビンこそが日本で初めてのFRPボディを纏った自動車ということである。 このクルマが日の目を見たのが昭和30年の第2回全日本自動車ショウで「メトロ125」という名で登場し好評だったことから、翌31年に「フジ・キャビン」として23万5千円で市販されたのである。
ユニークな外観の同車のドアは当初左側1枚のみであった(強度確保のため)が、後期型で両側にドアが付くようになった。またハンドルは1本スポークの下が丸くない形(レース用みたい!)であり、エンジンは125ccガス電エンジンを車体後方にスクーターのように取り付けてあった。また車体は150kgしかなく、大人2人で簡単に持ち上げることができたのである。しかし、FRPのボディは積層工法が完全な職人による手作りのため生産能率が上がらず昭和32年までに85台が作られただけら終わったのである。


くろがねベビー

オオタ自動車ト日本内燃機製造が合併してできた日本自動車工業が昭和34年に東急くろがね工業と改称し、「くろがね」の商品名で貨物車を主に製造していた。この名門くろがねが開発した軽貨物自動車が「くろがねベビー」である。後に出たスバルサンバーと共通のリヤエンジン採用の貨物車であったが、サンバーがスバル360をベースにしていたのに対して、くろがねベビーは貨物専用車として設計されていた。またサンバーが空冷2サイクルエンジンであったのに対して水冷4サイクルエンジンを採用していた、これは主力だったくろがね3輪トラックが全車水冷エンジン搭載となっていたためでもあった。

RR車は当然のように荷室最後尾がエンジンとなるため、中央部分のみにしか荷物を積めないが、低床とすることでそれをカバーしていた。また4輪独立サスペンションを採用していたのも特徴(これはサンバーも同じ)であった。ベビーはトラックであるキャリャ、キャリャに幌を被せたコマーシャル、コマーシャルの荷台に2人用シートを付けて4人乗りにしたキャンバスワゴンの3種類があった。


ミカサ・ツーリング

ミカサ・ツーリングは360cc未満の軽自動車ではないが、個人的に好きな車であるので、ここで紹介。

スチール家具の製造・販売を行っていた渇ェ村製作所が昭和33年開催の第5回全日本モーターショウに出品され、市販に移された2シーターのロードスターである。しかし僅か3台が生産されたのみであった。そのメカニズムはシトロエン2CVを模したFFを採用し、2速ATを実用化するなど凝っていたのである。ちなみにミカサとは軍艦三笠に由来している。



ホープスターON

ジムニーの前身が、このホープスターON型である。
ホープ自動車は、1950年代に軽3輪や4輪トラックを製造していた中堅メーカーであった。
同社が軽の4輪駆動車を設計し、三菱ミニカのエンジンを購入して完成させたのがホープスターON型であった。

生産台数は、僅か18台であったが機構は画期的であり、スズキ自動車に製造権利を譲渡し、スズキは改良を加え再設計してジムニーが誕生した。
現在、そのホープ自動車は、株式会社ホープと社名を変更して、遊園地やデパートなどにあるアミューズメント機器を製造している。


コニー360

コニーを作った愛知機械工業の前身は富士重工業と同じ飛行機屋であった。戦争当時の車名は愛知航空機であり機体とエンジンを製造していた。
戦後になり昭和21年に愛知起業と改称し、翌22年からオート3輪自動車ヂャイアント号の生産に着手した。
もともとヂャイアント号はオートサンダルの中野自動車工業鰍ェ昭和6年に既存のオート三輪車を改良し製造・発売を開始したが、昭和16年頃にはその製造販売権が大阪の帝国精機産業に移り、同社の名古屋工場が戦時中、愛知航空機の協力工場であったことが縁となり、21年12月、同社からヂャイアント号の製造販売権を半製品治工具を含めて譲り受けた。そしてその戦前の実績で資材の入手が可能になるとともに、オート三輪車業界進出への足がかりを得ることになったのである。


このオート3輪で業績を伸ばした愛知起業は昭和27年に愛知機械工業と改称、業界第4位の生産・販売となったのである。市場の需要がオート3輪から軽3輪にスイッチすると愛知機械工業も昭和34年3月に「ヂャイアント・コニー」を発売した、359ccエンジンのこの車は軽3輪で初めて丸ハンドルを採用と言われ(といってもフジ・キャビンが厳密には最初であるが)、ダイハツミゼットやマツダK360から遅れをとった発売となったが昭和36年3月まで作られた。


昭和34年に開催された第6回全日本自動車ショウで愛知機械工業は軽4輪トラック「初代コニー360」を登場させた。シートの下にエンジンを搭載したミッドシップ、アンダーフロアーエンジンという珍しいレイアウトは、その後の愛知機械工業の全車共通のレイアウトとなった。翌35年にはライトバンも追加された。昭和37年の第9回全日本自動車ショウには愛知機械工業初めての軽乗用車「コニー360コーチ」が参考出品された、市販には至ることはなかったが、この時開発された水平対向2気筒OHVエンジンがフルモデルチェンジされたコニー360に搭載され発売されたのである。新型コニー360はピックアップとライトバンの2体系と変わらなかったが、初代と比べて直線と曲線が上手く交わったデザインは洗練された感じである。コニーは昭和37年に日産と技術提携を交わした後、昭和39年には実質的子会社となり、昭和45年11月にコニー360のような自主開発・生産車から完全撤退し日産サニートラックやバネットトラックの生産を行うに至ったのである。


コニー・グッピー

愛知機械工業は昭和36年にユニークな発想の軽自動車を発売した。「コニー・グッピー」ミニマムサイズのボディーにミニマムサイズのエンジンをコニーお得意のミッドシップ載せたピックアップトラックである。
開発は昭和34年から始まり軽乗用車しスクーターの間を埋めるミニマムカーとして位置づけられていた。当初はフジ・キャビンと同じく前2輪・後1輪の3輪自動車として計画されていたが、並列2人乗りで走行安定性を考え4輪に設計変更となった。
自社製2サイクル単気筒の199ccエンジンがミッドシップにレイアウトされており、岡村製作所によるトルコンを組み合わせて2ペダル(アクセル&ブレーキ)のイージードライブを可能にした。


デザインは今見ても洗練されており、スイッチ類やランプ類にまでデザイナーの工夫が見られます。車体を少しでも軽くするため、サスペンションにはゴムを使ったトーションスプリング(ナイトハルト式)が採用され、4輪独立サスペンションという先進技術が採用されている。
販売価格は22万5千円に設定されたが、スクーターからの乗り換え需要かが期待した割には販売台数が伸びなかったようである。
愛知機械工業のホームページによると、昭和37年の製造終了時には、このグッピーの一部を改造し、遊園地用の乗り物として横浜の「子供の国」に日産自動車より「ダットサンベビー」の名称で寄贈されたそうである。
現在、同様の思想でヒットしているダイハツ・ミゼットUの先駆者として、今こそ欲しい車であると言えます。

参考文献:グランプリ出版「懐かしの軽自動車」
資料協力:愛知機械工業潟zームページ
写 真:(社)自動車工業会自動車図書館
写 真:「みちのく旧車ミーティング」くろがね号の写真をお借りしました。